あるワークショップで、講師が話を始めたら、近くの方が目を瞑っていた。居眠りではなく、瞑想しています・・という雰囲気。
私も時々していたことなので、ちょっとその方を観察。
穏やかな気持ちで講義を受けようと思ってしたことだろうけれど、私もそうのつもりだったけれど、その方の動きを冷静になって観察させていただき、自分の今までの態度も思い出しながら照らし合せてみると、瞑想モードは単なる我の塊になってしまっている。
目を瞑り、心の窓も閉じてしまっている。
今回に限らず、今までにも時々そのような事をする人をみかける。
講師が来てから瞑想するのでなくて、講師が登壇したときには穏やかな心持ちでいることが、学びの姿勢。
会場に着くまでには身体が整っているように私はきをつけよう。
移動中から講義は始まっている。(移動前から・・)
見た目、瞑想している姿は落ち着いているように見えますが、そういう方に限って、ワークショップではいい成果が得られていません。
その瞑想モードは思考モードなので、気が上がったままで、丹田に氣が落ちていないのですね・・。
講義を聞くだけの場合はその違いはわかりませんが、身体操作の学びの場では明らかになります。
教わる身になり、教える側になって気づきがあります。
目を開き、心も、素直な気持ちで講義を受ける。
今までの経験値は しばしどこかに閉まっておく。
考えるのは後ほど。
空っぽになって
透明になって
そのような場に 綺麗な光の粒が降り注ぐ